Story #2

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日差しのまぶしさに目を細め、あくびをかみ殺しながら、私はいつもと違う電車に揺られている。美容院の予約は18時。

そのお店がある渋谷まで出るには、東急目黒線を目黒で乗り換えて山手線、というのがいちばん早いし普通なのだけれど、今日は逆方向の電車に乗って田園調布で乗り換え、東横線で渋谷に向かうことにした。

今日こそ授業に出よう、そしてその帰りに美容院に行こうと思って遅い時間に予約したものの、結局学校をさぼってしまったので、夕方まで時間はまだたっぷりあった。

車窓を流れる景色は午後の光を浴びて全体的に白っぽく、反対に停車する駅のホームがずいぶん薄暗く感じる。私はドアの横にある手すりにもたれかかり、自分の顔を意味もなく車窓に映してため息をついた。化粧がいまいち。目のまわりが腫れぼったい。重めのショートマッシュの毛先を軽く指先で動かし、これを今日はどうしよう、と考える。

お昼過ぎまでずっと寝ていたのに、まだ眠たいなんて不思議。そう思いながらぼんやりホームを見ていたら、開いたドアから神田くんが乗り込んできたことに気づかなかった。あれ? まひるじゃん? と声をかけられ、振り向くと、久しぶりに会う男友達の顔が横にあった。

渋谷に着いたら本屋かカフェにでも寄ろうと思っていたその時間を、神田くんが付き合ってくれるというので、私たちは一緒に終点の渋谷駅で下りた。

「時間、ほんとに大丈夫?」

「俺もう仕事帰りだしねー」

「立派に働いてんだ」

「まあね」

神田くんと出会ったのは二年くらい前。ふたりともまだ十八歳で、私が清涼飲料水のサンプルを配って歩くキャンペーンガールみたいなアルバイトをしたとき、彼がその裏方のバイトをしていた。

神田くんはいま、雑誌やカタログのモデル撮影の衣装を用意するスタイリストの助手みたいな仕事をしていて、取引先に衣装を届けた帰りなのだと言った。

「まひる、最近どう?」

「えー、別に」

「なんかあったでしょ」

「わかる?」

「わかるよ。俺ら何年付き合ったと思ってんの」

「五日」

だひゃひゃ、と派手な声をあげて神田くんが笑い、通りがかりの人を振り向かせた。まあ話聞くよ、と肩に手を回され、私たちは神田くんがよく行くという、青山通りの奥まったところにあるカフェのテラス席に座った。

昔の男、にしてはあまりにもざっくばらんというか、対話に深刻さとか思慮深さのかけらも感じないのは、本当に五日間しか付き合わなかったからだ。

当時、神田くんはファッション系の専門学校を入学から半年ももたずに中退したところだった。なんかちげえ、という理由で学校を勝手に辞め、親と喧嘩し実家から追い出された神田くんを見かねて、しかたなく私が部屋に泊めてあげた。

ふたりで部屋で音楽を聴きながら楽しくお酒を飲んでいたら、なんだかそういう気分になって私からキスをした。すると神田くんが、「こういうのありがたいんだけどさ、俺、ちゃんと付き合った女としか寝ない主義だから」と真面目なんだかふざけてんだかわからない変なことを言い出したので、じゃあ私と付き合えば? と提案して、私たちは付き合うことになったのだ。

「俺、まひるちゃんの彼氏かー。光栄っす」とか言ってたくせに、でもその五日後、彼は別の男友達とルームシェアするとか勝手に決めて、礼も言わずさっさと私の部屋を出て行った。

神田くんと会うのはそれ以来。正直なところ、名前も存在さえも忘れかけていた。

「そういや私の部屋に神田くんが忘れてったジッポまだあんだけど」

「え、それたぶん俺のじゃないよ」

「うそ。誰のだろ。もう捨てちゃっていいかな」

その頃、大学に入って一年目で、何をしても楽しくて、自由で、そこらじゅうに新しい出会いが転がっていて、浮かれ騒いでいた私の部屋には、神田くんに限らずよく男が来た。

これまで、神田くんの言葉を借りれば、私がちゃんと付き合ったと言える男は神田くんも含め六人だけれど、部屋で朝まで一緒に過ごした男の数はたぶんその倍くらいはいる。

男とふたりきりで過ごして、しゃべったり、ふざけあったり、抱き合ったり、そういう時間が純粋に楽しかった。恋とか愛とかそんな感じのことはけっこうどうでもよかった。好き、という気持ちは、この人いい人かも、とか、いい男、とか、あ、なんか相性良さそう、みたいな瞬間的な感覚のことだと思っていた。服を選ぶときのような、通学のあいだに聴く音楽をタップするような。そう、タクミに出会うまでは。

「タクミに、フラれたんだよ」

神田くんが運んできてくれたカフェラテに口をつけ、私はさっそく切り出した。神田くんはジンジャーエールみたいな色の炭酸を飲んでげっぷをひとつしてから、
「傷ついてんの?」と私の顔を覗きこんだ。

「わかんない。でもさびしいしムカつくしどうしようもない」

「捨てられたんだね」

「だからそう言ってんじゃん」

「俺にキレんなよ」

 

タクミは大学一年のときのゼミにいた男の子だった。

学校でしょっちゅう顔を合わせるし、ゼミのみんなと一緒に飲みに行ったりもするし、もともと友達として仲がよかった。

タクミがはじめて私の部屋に来たのは、その年の冬のことだ。クリスマスの直前で、タクミはそのとき付き合っていた女の子にふられ、ひどく落ち込んでいた。

タクミを捨てた女の子は私の友達でもあったので、授業の帰り、学校のそばの安い中華料理屋に呼び出され、えんえんと愚痴を聞かされた。閉店時間になって、どこかのバーで飲み直そう、と店を出たら、もう酒を飲む金なんてない、貯めたバイト代はみんな彼女へのプレゼントに使った、と彼が貧相なことを言うものだから、じゃあ私んちで朝まで飲むか、と部屋に連れてきた。神田くんのときといいタクミのときといい、私の部屋はまるでダメな男のための駆け込み寺だ。

寝るつもりはなかったけれど、あまりにタクミが可哀想だったので、私はなんだか無性になぐさめてやりたくなった。傷心の男を立ち直らせるのは結局はそういうことだと、私はそのときもうよく知っていた。

「さみしくなったら、いつでもまた遊びに来なよ」

そう言って翌朝送り出した。そしたらもうその晩、学校から帰ると、タクミはアパートの玄関先に立っていた。私は爆笑してしまった。

「なんでまたここにいんの?」

「いや、だから、さみしいわけで…」

タクミは情けなくてかわいかった。群れからはぐれた小動物のようだった。

 

神田くんのように、どうせ数日でいなくなると思っていた。でもタクミはクリスマスも大晦日も私の部屋で過ごした。いっこうに帰る素振りをみせなかった。そしていつのまにか、私の部屋で暮らすようになった。彼の服や下着や整髪料や歯ブラシやコップが、少しずつ私の部屋に増えていった。百均で、わざわざ自分専用のプラスチックの収納ボックスを買ってきたりもしていた。

あるとき、「俺ら、付き合ってるって認識でOK?」とタクミが言うので、私は、OK、と返した。

それでも私は、タクミの心のなかに、そのときまだ前の彼女が居座っていることを知っていた。私は彼女の代替品でしかないとわかっていた。でも別に構わなかった。しばらく付き合って、もしうまくいかなくなったら別れればいいやと思っていた。私は男と女の関係を、ずっとそんなふうにかんたんに考えてきた。

あるとき学校でタクミの前の彼女から呼び出され、私とタクミの関係について探りを入れられたことがあった。なんかタクミがまひるんちによく行ってるらしいねと聞かれたので、付き合ってるよ、と答えた。そして「もしタクミのことがまだ好きだったら、いつでも返してあげるから取りにおいで」と笑って付け加えた。冗談ではなく、本当にそう思っていた。タクミもきっとそれを望んでいるはずだから。

そんなふうにして冬が終わり、そして大学二年の春がやってきた。タクミはまだ私の部屋に入り浸っていた。

私たちは朝一緒に学校に行き、別々の授業を受け、別々のバイトに励んだ。私は中目黒のカフェで週三回働き、彼は渋谷の漫画喫茶でのバイトを私と同じ曜日に調整して働いた。バイト帰りに連絡を取り合って、駅で待ち合わせて夕飯を済ませて一緒に帰った。ときどき、スーパーで食材を買ってふたりで料理を作ることもあった。

ふたりの関係に他人が介入することはなかった。男の出入りの激しかったそれまでと違って、波風のまったく立たない男女の関係は、案外、心地よかった。あまりにもタクミとばかり一緒にいるものだから、すっかり他の男たちからの誘いは減ってしまったけれど、私は物足りなさをまったく感じなかった。むしろその穏やかさが新鮮だった。

 

私のなかの、タクミに対する気持ちにはっきりとした変化が訪れたのは、その年の五月の大型連休のときだった。

一週間ほど実家のある新潟に帰省していたタクミは、そこから東京の私の部屋に宛てた手紙を送って寄越した。それまで部屋に届く郵便物といえば公共料金の請求書か化粧品のDMくらいしかなかったから、私はとても驚いた。白い便箋の真ん中に書かれた私の住所と名前。タクミの書く文字、というのを、そのときはじめて見た気がした。

一瞬、手紙という形式のその妙な礼儀正しさに、これはもしかしたら別れの便りかもしれない、と感じた。前の彼女とよりが戻ったとか、実家に帰って気持ちが変わったとか。なんかそんなことが書かれているんじゃないかと。少し怖かった。でもそれならそれで仕方がないと思った。その場で封を切り、玄関に立ったまま一気に読んだ。

私はそれまで、男たちからけっこうな数のプレゼントを受け取って生きてきたけれど、あのときほど感動したことはなかった。それは、いまの時代には珍しい、ラブレター、というものに違いなかった。

タクミはそこに、愛のようなものを綴っていた。

私の部屋で過ごす時間が幸せだと書いた。私を心から好きだと書いた。前の彼女の気持ちがもしも自分に戻ったとしても、もう私から離れることはないと書いた。私に向けて、ありがとうと書いた。これからもずっとよろしく、とも書いた。

愚かしいほど真っ直ぐなその手紙を何度も何度も読み返して、私は泣いてしまった。そしてそれを宝物にすると決めた。

せっかくだから返信を書こうと思ったけれど、うっかりタクミの実家の両親とかに読まれたら恥ずかしいし、連休も終わりに近づいていたので、私はかわりに短いメールを送った。

〈手紙ありがとう。読んだ。私もタクミが大好きだよ〉

送信ボタンを押した瞬間に後悔してしまうほど、その文はあまりにも照れくさく、こっ恥ずかしく、とても自分の言葉とは思えなかった。でも確かに、そのとき私が彼に伝えたいことは、正真正銘それだった。

 

連休が終わって私の部屋に帰ってきたタクミと私は、それから本当の恋人同士になった。

大学二年の夏休み、私とタクミは一週間かけてふたりで西の方へ旅行した。安い切符を買って電車に揺られ、大阪や神戸や京都をまわった。どんなに歩き疲れても、夜はホテルで抱き合って眠った。暑い夏だった。それまでに貯めたバイト代はみんなその旅行に使った。

大阪に泊まった夜、美味しいものを食べ過ぎたタクミが、部屋に戻ってベッドに横になるなり、あっというまに眠ってしまった。退屈した私はそばでテレビを見ながら、彼の髪や、腕や、お尻にそっと触れた。手のひらを通して伝わるやわらかな熱にうっとりした。そして思った。私がそれまで触れていた男の身体は、ただの皮膚の表面だった。ただの骨の起伏だった。タクミと付き合ってタクミに触れて、私ははじめて、男の人の、心、のようなものを知った。それは温泉みたいにあたたかくて、指先でほんの少し触れた途端、ビーズクッションみたいに私をまるごと包み込んでくれるもの。そんなものが、タクミの身体のなかにあった。

秋から冬になる頃、一度だけ、私がタクミの前で大泣きしたことがあった。泣き出す理由なんてなかった。お風呂上がり、部屋で普段と同じように寝る準備をして、借りてきたDVDを観ようとタクミがプレーヤーにディスクをセットしていたところだった。突然しゃくりあげた私を振り返り、タクミが戸惑っていた。

「え、なに、どうしたの?」

「ごめん、自分でもよくわかんない」

本当にわけのわからない涙だった。どこか体調を崩していたのか、それともたまたまそのときだけホルモンのバランスがおかしかったのか。とにかく突然だった。不安で、幸せだった。私はタクミにしがみついた。タクミは私をベッドに横たわらせて自分は床に座り、私が泣き止むまで、ずっと私の濡れたままの髪を手のひらで撫でていてくれた。

「ありがとう」

泣き止んで、少し気分も落ち着いて、私は思った。こんなふうに誰かを好きになることを、私はずっと望んでいたのかも知れない。でも、結局は自分に自信がなかったのかも知れない。そしてそれが手に入ってしまった途端、私は今度はそれを失うのが怖くて怖くて仕方なくなったのだろうと。

「ねえ、タクミは私のどこが好き?」

愚問だとわかっていても聞かずにはいられなかった。タクミがそばにいてくれる、その理由を知りたかった。

「髪」

「髪?」

「あとまぶた。耳。匂い。唇」

タクミは単語を思い出すように途切れ途切れに言いながら、私に頬を寄せた。タクミとの距離が縮まっていくのを感じるほど、私の心は満たされていった。私たちは抱き合った。小さなワンルームの部屋には幸せみたいなものが充満していた。その濃密さに息が詰まって呼吸が苦しくなるほどだった。

「私、いまなら死んでもいいかも」

私は言った。横でタクミが、うん、と頷いた。

 

すべてはうまくいっていた。そして私とタクミが一緒にいることは、法律で定められたみたいに、あるいは宇宙の法則のように、当たり前で自然なことになっていった。

でも、いつまでも同じままではいられなかった。

ある日、私たちは小さな喧嘩をした。大学三年になったばかりの、桜の終わり頃。いまから一ヶ月半ほど前のことだ。

井の頭公園に花見をしに行く約束をしていたのに、タクミが急なバイトのシフトで行けなくなってしまった。

「ええっ、なにそれ。先週は大丈夫って言ってたじゃん」

「シフトの子がインフルになっちゃったんだよ」

「でも別にタクミがそこに入らなくてもよくない?」

「しょうがないじゃん。助け合いだよ」

私はタクミを責めた。こんなに楽しみにしてたのに。お弁当まで予約したのに。私はバイト休んだのに。ありえなくない?

タクミは謝ってくると思った。でも、タクミは不機嫌な冷たい声で、なんかさ、それって違くない? と言った。

あのとき、私は自分が何か勘違いをしていると気づくべきだった。そこで反省すればよかった。素直に謝っていればよかった。そっか、それじゃしょうがないね、残念だけどバイト頑張ってね、と言っていればよかった。でも私はわざと憎まれ口をたたいて、もういいよ、と言って、タクミを部屋から追い出した。

一週間会わず、そのあいだに桜も散って、そうこうしているうちにまた五月の連休がやってきて、タクミは実家に帰省した。

私はたかをくくっていた。会わないあいだに反省しているのはタクミの方だと。だって、彼はこんなに私のことを好きでいるのだから。私が楽しみにしていた花見だったんだから。約束をやぶったのはタクミなんだから、と。

東京に帰ってきたタクミと久しぶりに顔を合わせたのは、五月の連休が終わって一週間が経ってからだった。夕方、何事もなかったかのようにふらりと私の部屋に戻ってきたので、近所のスーパーで総菜を買ってきて、テレビを見ながら一緒に食べた。

「帰省、どうだった?」

「あ、まあ、いつも通り」

タクミの様子は妙によそよそしかった。そのことに、私は少しずつ腹を立てはじめた。いきなり部屋に来たお前を私は受け入れてやっているのに、なんだその態度は、と思っていた。

「なんかさ、タクミ、機嫌悪いよね」

夕飯の片付けをしながら私は彼の顔を見ずに言った。

「いや別に」

「悪いじゃん」

「悪くないって。てかいま、俺テレビ見てんだよ。その流しの水の音、静かにしてくんない?」

そう言われてカッとなった私は、衝動的に別れ話を切り出した。

「なんか、私たちうまくいってないよね最近。別れてみる?」

ほんの威嚇のつもりだった。驚かせて、反省させたかった。少し強いことを言えば、そのうち、ごめん、とか呟いてタクミがすり寄ってくると思った。キッチンに立つ私を背後から抱きしめ、耳に唇をつけて、さっきはごめんね、と。以前のように。でも違った。

「そうだね」

私は激しく動揺し、取り乱した。濡れた手を拭いて、クローゼットから大切な物をしまっている箱を取り出し、そのなかからちょうど一年前の彼の手紙を出して彼に突きつけた。これ、読んでみなよ。このときの気持ち、どこいったの? 彼は渋々、といった感じで便箋を受け取り、静かに読んだ。そして言った。

「ごめん。このときの気持ち、いまはないかも」

別れたくない。絶対別れない。泣いて謝るのは私の方だった。ごめんなさい、私が悪いならみんな直すから言って。自分が醜かった。自分の部屋なのに、私は彼に出て行かれるのがいやで自分から出て行った。

コンビニと本屋とファミレスでしばらく時間をつぶし、夜遅くに部屋に帰ったら、タクミはもういなかった。部屋にあったはずのタクミのものはみんな消えていた。LINEをしてもメールをしても返事はなく、メッセンジャーを使っても既読にさえならなかった。電話も留守電に切り替わるだけだった。

 

学校でタクミを見たのは、それから二週間が経った五月の終わりのことだ。

午前の授業が済んで、校舎を出て食堂の方に歩き出したときだった。ずっと探し求めていたタクミの姿が、目に飛び込んできた。真っ直ぐ伸びる広い並木道の端を、遠くから歩いてくるところだった。彼はずっと私の部屋の収納ボックスに入っていたTシャツを着ていて、私は、あ、もう夏だ、なんてことを思った。でも次の瞬間から、私は正気ではいられなくなった。タクミの横には、私の見知らぬ女がいた。並んで、何かをしゃべりながら歩いていた。ただの友達とか、同じ授業の人、と思い込もうとした。でもそんな感じではなかった。

いつから気づいていたのかはわからないけれど、すれ違うとき、タクミがちらっと私を見た。私は気づかないふりをして真っ直ぐ前だけ向いて通り過ぎた。ずんずんずんずん、ひたすら歩いて、用もない建物の角で曲がってそのなかに逃げ込んだ。

バッグを持つ手が少し震えていた。お腹のあたりが熱かった。目を見開いていた。年下らしいその女の子は、タクミの前の彼女に雰囲気がとてもよく似ていた。あきらかに。タクミが好きなタイプの女だった。

 

「で、結局何が悪かったん?」

電子煙草から甘い匂いのする煙を吐きながら、神田くんが困ったような呆れたような顔をつくる。

「わかんない」

「重すぎたんじゃね?」

「わかんない」

「何か言ったりしたんじゃないの」

「わかんない」

「でもまあ、それが男と女ってもんだからなあ」

タクミと付き合う前の私なら、だよね、と同調していた。理由もなくくっついたり離れたり。男と女なんてそんなものだ。

「男と別れたら、新しい男を見つけるといいってよく言うよ」

「それ、犬とかでしょ」

「そうだっけ?」

私はここのところ、ずっと授業を休んで部屋で寝てばかりの、引きこもりみたいな異様な生活を続けている。朝も夜も関係なく部屋で眠り、食事はコンビニ弁当か、何も食べないか。でもさすがに授業を受けないと単位が取れず卒業できないので、そろそろ学校には行かなくちゃいけない。

「早く忘れなよ、いなくなった男なんて」

「でも部屋にいると、ずっとタクミのこと考えちゃう」

「じゃあよかったら俺の部屋泊めてあげようか? 五日くらい」

ははは。完全にから元気だけど、私は神田くんの冗談に付き合って笑う。笑うのなんて、いつ以来だろう。頬が引きつる。

「よかったー、まひる、やっと笑った」

「ありがと。なんか話したら少し落ち着いた」

「お役に立てて何よりです。美人なんだから、きれいにしてりゃすぐ立ち直るよ」

「神田くんは最近どうなの? 彼女とか」

「いやー、俺、実はゲイなんだよね」

「ええっ? まじで? え、でも私と…」

「どっちもいけるんだけど、どっちかっていうと男の方が。でも俺なんか捨てられっぱなしだよ。こないだもさあ。って俺の話はいいよ。まひるちゃん、男なんてそのときどきで誰かいればいいんだよ。もともとそういう女だったじゃん。てかいいよなー。大学生って。ひまそうで。失恋して寝込んでても仕送りで生きてけんだから。俺も勉強し直して大学行けばよかった」

「…」

「さ、そろそろ時間でしょ。思い切って髪型変えれば、また新しい自分になるよ」

神田くんが電子煙草をしまって立ち上がり、空のグラスとカップの載ったトレーを店の奥に戻しに行った。

新しい自分か。前はそんなもの、いくらでもなれた。髪型を変えて、服を買えて、スマホを変えて。でもいまは、少し時間がかかりそう。

まあ、だけどとりあえず髪切るか。タクミが、好きって言ってくれたこの髪を。伸びた毛先をつまんで見上げると、空は夕暮れの色に染まっている。

 

 

 

小説・藤田雅史 | 写真・TAKUMA | スタイリスト・内田聡一郎(LECO)