Story #3

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雨が好きで、私はたくさんの傘を持っていた。

靴が好きな子の靴棚には靴がたくさん並ぶように、鞄が好きな子のクローゼットが鞄であふれるように、私の住む部屋の玄関の傘立てには、いつもたくさんの傘が身を寄せ合うように並んでいた。ヴィヴィアンウエストウッド、ピンキーアンドダイアン、MoMA、トランスコンチネンツ、マリアフランチェスコ。

雨の日にも種類があった。その日の気分で、着ている服で、レインシューズの柄で、傘を選ぶのが好きだった。

 

大阪に来て、でも私の部屋の玄関に傘はたったの一本しかない。それも百均で買ったビニールの透明傘。白い持ち手のところにまだ店のシールが貼られたまま、靴棚に立てかけられている。

石田さんはベッドのなかで窓の外をぼんやり眺めながら、

「この調子やと明日も雨やんなあ」と変なイントネーションで言った。

「やめてよその不自然な関西弁」

「せやな、えろうすんまへん」

わざとらしく唇をつきたてふてぶてしく笑うので脇腹をくすぐってやる。身をよじらせてベッドから這い出た石田さんは床に落ちていた眼鏡を拾い、ちょうど鳴りだしたアラームを止めて着替えをはじめた。運送会社のドライバーをしている石田さんは、土曜日も朝早くから仕事がある。

「じゃあ明日、七時にお店で待ってるで。あ、待ってるよ」

「うん、ありがとう」

「コースは僕が決めちゃったけどいいよね?」

「石田さんと一緒なら私はなんでもいいよ」

「雨がなあ。上がるといいけど」

「残念だけどしょうがないって」

 

石田さんが部屋を出てから、私はしばらく布団の中で雨音を静かに聞いた。残念、と言ったけど、私は雨が好きなのだ。自分の誕生日が雨でもちっとも悪い気持ちはしない。

水分をたっぷり含んだ春の雨。ベランダにぽつぽつと落ちる滴。枕元のスマホに手を伸ばし天気予報を見る。予報アプリの設定はまだ「東京 世田谷区」になったままだ。私は何度かタップして、「近畿地方」→「大阪」と表示を変える。石田さんの言うとおり、明日の予報も雨だった。部屋の窓には雨粒がまばらについている。これまで石田さんにつき続けた嘘の数と、この窓の雨粒の数と、どちらが多いだろうなんてことを思いながら、私はそれを見上げた。

 

住み慣れた東京を出て、大阪に移り住んだのは今年の春。

だからまだこの部屋に来て三ヶ月しか経っていない。部屋は生活に必要な最低限の家具を揃えただけで、マンスリーマンションのように殺風景だけれど、もうこれ以上、家具や雑貨を増やす気持ちはない。

東京からは、逃げてきた、というのが正しい。東京から、というかマモルから。マモルとの思い出から。マモルと新しい彼女の存在から。

マモルとは三年付き合った。はじまったのが大学一年の冬からで、友達だった期間もあわせると、感覚としては私の大学生活の思い出のすべてがマモルとともにある。

私は本気だったし、いつかマモルと結婚するつもりでいた。実際にふたりで将来の話をしたこともある。そのときは、できるだけ給料のいい会社に就職してせっせと貯金して、その金額が500万円になったら結婚してマンションの部屋をローンで買おう、国産でいいから車も買おう、なんて具体的な計画まで立てた。

私たちが通っていた学校は偏差値が低い三流の私立大学で、とてもひとに自慢できるようなところではなかったけれど、それでも就職活動を頑張って、大学四年の時点で私は印刷機器メーカーの、マモルは食品会社の内定を、それぞれもらっていた。お互い、新人だからって地方に飛ばされなければいいね、なんて言い合っていた。

 

ところが、だ。

大学を卒業する直前になって、私は突然マモルにフラれた。

「え、なんでなんでなんで」

「ごめん、他に好きな子ができた」

「意味わかんない。何言ってんの?」

青天の霹靂というのはこういうことか、と思った。

マモルと別れるなんて到底受け入れられなかったけれど、受け入れるしかなかった。マモルがそうしたいと言うのだから。

それでも許すことはできなかった。もう全体的に許せないのだけど、特に輪をかけて許せないのは、マモルの新しい彼女が、同じ大学の、私の友達だったことだ。
大学一年のときから同じサークルで数え切れないほど一緒に遊んで一緒にお酒を飲んだアヤノという名のその女は、大学の卒業式の前日に、わざわざ仁義を切るために私を呼び出した。

「奈央、ごめんね。いくら謝っても許してもらえないのはわかってるけど。マモルのこと好きになっちゃったんだ」

殺したいほど憎たらしく、許してもらえないのがわかってんなら謝んな! とその場で声を張り上げたかったけれど、私はなんとか冷静を装ってそれに応じた。

まだ就職の決まっていないアヤノは、すでにマモルの部屋に転がり込んでいるらしかった。奈央に近いところに住みたい、と言ってわざわざ大学二年のときに引っ越してきた、私の部屋から歩いて五分もかからない、あのマモルの部屋に。

その日アヤノは紙袋を持参していて、そのなかにはマモルの部屋にあった私の私物がぎっしり詰まっていた。服に雑誌にシャンプー、下着に生理用品まで。こいつなんて女だ、と愕然とした。それでも私は笑顔さえつくって、マモルをよろしくね、なんて台詞を吐いた。一緒に胃の中の物も吐き出したいような気持ちだった。

 

ほとんど茫然自失の体で臨んだ大学の卒業式は、本当に最悪だった。

マモルの横にはずっとアヤノが爬虫類のようにへばりついていて、私はマモルとまともに言葉を交わすこともできなかった。

何より悔しいのは、マモルとアヤノが付き合っている、ということを、周囲の仲間がみんな認め、受け入れていたことだ。よかったね、アヤノ、ずっとマモルくんのこと好きだったもんね、おめでとう、みたいな感じで。なんだそれ。いままでいったい何を見てきたんだよお前らは。ずっとマモルと一緒にいたのは私なのに。私とマモルが、みんなと一緒に遊んでいたじゃないか。私は、大学時代の幸せな思い出を、アヤノにすべて盗まれてしまったような気持ちだった。屈辱だった。

卒業式のあとの飲み会を断って部屋に帰った私は、その夜、荒れに荒れた。ひとりでお酒を飲んで、ひとりで泣いて、物を投げ散らかして、マモルと一緒の写真をキッチンのガスコンロで焼いた。そしてそれまで大切にしていたブランド傘のコレクションを、一本一本、格闘家のごとく膝でへし折っていった。そのなかには、マモルにプレゼントされた傘も何本かあった。

そして決めた。マモルとアヤノの住む町になどいられない。この部屋から出て行こう。もういっそ、東京から出て行こう。

 

そして私はいま大阪にいて、求人サイトでみつけた家具輸入の会社で派遣社員として勤めている。事務や雑用、データ入力などの誰でもできるような仕事を、さしたやる気も見せずに黙々とこなす毎日だ。

石田さんとは、会社で知り合った。エリアドライバーとして新しくこの地区に配属されたと挨拶に来たとき、その対応をしたのが私だった。

三つくらい年上で、地味で、背が低くて、パッとしない感じの男だった。ただ、彼のしゃべる言葉のイントネーションは、関西の人のそれではなかった。

石田さんはそれから毎日、集荷と配達のために会社にやってきた。事務員は他にもいるのだけれど、最初に対応したのが私だったので、いつのまにか私が石田さんの担当みたいになっていった。

あるとき、石田さんから食事に誘われた。大きな荷物を倉庫に入れるために鍵を開けに行って、ふたりきりだった。見た目的にこの男はさすがにないな、と思った。でも友達も知り合いもひとりもいない完全アウェイの大阪で、東京っぽい人と話ができる機会はそうなかった。なんとなく食事だけならいいかなと思ってオーケーした。

 

最初のデートは、心斎橋にある雰囲気のよいイスラエル料理の店だった。聞いてみると彼は横浜の出身で、私とマモルが通った大学よりはるかに偏差値の高い有名私立大学を卒業していた。

「そんないい学校出てるのに、なんで荷物運んでるんですか?」

酒に酔って私は訊ねた。

「僕ね、実家が運送会社やってるんだよ。中小企業だけどね。だからゆくゆくは跡を継ぐことになるんだけど、やっぱり大手の現場のやり方とか、そういうの実際に体験しておかないといけないと思ってさ」

彼はお金持ちの経営者の息子、だった。

「でもなんで大阪?」

「東京は弟に任せて、いつか、ここに支店を出したいんだ。だから実地調査も兼ねて。あ、これ、人に言わないでね」

私とマモルの結婚計画なんかとはちょっとレベルの違う話だった。

店の支払いは当然のように石田さんがカードで済ませ、タクシーで私の部屋の近くまで送ってくれた。マモルと付き合っていたときはいつも割り勘で帰りは終電か自転車だったから、そのドラマっぽさにちょっとドキドキした。帰り際、また食事しようと言われ、私は素直に頷いていた。

 

それから何度か、私たちはデートを重ねた。

ドライバーのユニフォームで会社にやってくる石田さんと、外で会う石田さんはまるで別人だった。彼は私よりもうんと大人だった。頭がよくて、まじめで、いい人だった。

ふたりで万博記念公園に行ったとき、外国人の子どもが迷子になっているのを見つけて声をかけたら、私の英語がまったく通じなかったことがあった。これでも大学のとき三ヶ月留学したんだけど、まいったな、と困っていたら、石田さんが流暢な英語をしゃべりだして無事両親を探し出しことなきを得た。すごくスマートだった。

四度目のデートの終わりに、付き合って欲しいと言われたとき、ここで頷くのが正しい、と私は思った。だから、「私でいいの?」と殊勝に答えた。

でも、そのとき私が感じていたのは、マモルと付き合いはじめたときのような、幸せと表現できる気持ちではなかった。いい男をつかまえて、ようやくマモルとアヤノに一矢報いた。そんな感じだった。それは憂さ晴らしに近かった。私はすっかり空っぽになった自分の心が、自尊心で満たされていくのを感じていた。

 

石田さんは、それから頻繁に私の部屋にやってきた。私も石田さんの部屋に泊まった。石田さんの部屋はあべのにある比較的新しい清潔なマンションで、そこに置いてあるのはどれもいい家具ばかりだった。

「うちの会社もここのソファ扱ってるよ。いいよね」

「家具屋さんに褒められてよかった。部屋のベッド、そろそろ買い替えようかと思うんだけど、いいのあったら教えてよ」

「あー、でも私、派遣だから社割きかないかも」

「そんなのいいよ」

仕事に関して、私は与えられた業務をそつなくこなしていたけれど、では職場に馴染んでいたかといえばそうではなかった。むしろ、できるだけ馴染まないようにしていた。

大阪に住んでいる私、というのを、自分自身で認めたくなかったのかも知れない。大阪に暮らしていても、賑やかな場所にはできるだけ近づかないようにしていた。迷路のような梅田の地下街はうんざりだったし、大阪の街に飛び込んでいっても、どうせ、東京とは違う独自の文化、みたいなものを押しつけられるだけのような感じがして、気が引けた。

あるとき、会社の人が私の陰口をたたいていたと、石田さんから聞いた。たまたま会社の喫煙所を通りかかって女子社員が話しているのを耳にしたのだそうだ。

「あの子、なんかうちらのこと馬鹿にしてる」

そう言っていたらしい。私は否定しない。飲み会に誘われても全部断ったし、おっさんの社員から冗談を言われても相手にしなかった。本当の自分の居場所はここではないと思っていたから。

「よくないと思うよ。職場では仲良くしなよ」

石田さんは私に忠告してくれた。もちろん、やさしさで。

「でも石田さんだっていまの会社どうせ辞めるんでしょ」

「うん。だけど、人付き合いまでやめる気はないよ。せっかく出会って一緒に働いてるんだから、楽しく働きたいしね」

反省する、と私は石田さんに言った。でも心のなかでは、逆のことを思っていた。あなたとの関係だって、私はいつでもやめていいと思っているんだ。私は本当はここにいるべきじゃないんだ。私の男は、あなたじゃないんだ。

 

突然マモルから電話がかかってきたのは、石田さんの部屋に、新しいベッドが届いた夜のことだった。

夜中、ダブルサイズのそのベッドに並んで眠っていたら、枕元の私のスマホが震えた。目を覚まして画面を見ると、マモルからだった。時間は午前三時だった。
私は寝ている石田さんを起こさないように、そっとベッドから起き上がり、石田さんの寝息を確かめてから急いで部屋を出て、マンションの廊下でその電話に出た。

「奈央?」

それは懐かしい声だった。

「マモル、どうしたの」

私は自分でも驚くほど、やさしい声を出していた。ごめん、こんな時間に電話して、とマモルはわびた。

「奈央、大阪にいるんだって?」

大学の同級生から今日聞いてびっくりしたとマモルは言った。なんで大阪に? 入社していきなり支社に飛ばされた?

「いや、なんでっていうか、まあいろいろあって」

私は内定をもらっていた会社を蹴ったことも、いま派遣社員をやっていることも言わなかった。

「奈央、元気?」

「うん、まあまあね。そっちは? アヤノとうまくいってる?」

「なんとか」

なんとか? なんとかってなんだよ、と思ったけれど、それ以上は聞けなかった。

マモルの電話は、ちっとも目的のわからない電話だった。就職した会社のこと、大学の友達のこと、二十分くらい話をして、マモルの方から電話を切り上げた。おやすみ。うん、おやすみ。そう言い合って通話を終えるのが懐かしかった。マモルの「おやすみ」は、付き合っていた頃と同じ声の響きだった。

マモルが弱っている、と感じた。そうじゃなけりゃ、こんな時間に私に電話をかけてくるはずがなかった。そして、なんとか、という台詞を、私は何度も何度も頭のなかで繰り返した。なんとか。なんとか。なんとか。そこにはまだ、私が入り込む余地が残されているような気がした。アヤノとうまくいかなくなったとき、マモルがいちばん会いたくなるのは私なのではないか、と思った。

画面の暗転したスマホをじっと見つめていると、いま自分が大阪にいることが嘘のように思えた。長い夢のなかにいるかのようだった。いますぐ、大学生のときのように自転車をこいで、マモルの部屋に駆けつけたかった。そうしたら取り返せるかも知れない。なんで私はいま大阪にいるんだろう。どうしてあの部屋にとどまらなかったんだろう。

我に返って石田さんの部屋のドアを開けると、玄関に電気がついてたのでドキッとした。

「友達?」

石田さんはキッチンに立って、ポットにお湯をわかしていた。

「あ、ごめんなさい、うん、東京の友達の子が、なんか失恋のショックで電話かけてきて。起こしちゃった?」

すらすらと嘘が出てきた。石田さんはやさしく相づちを打ちながら、お茶をいれて、私のでたらめな話を聞いてくれた。

 

それから、私はマモルに会いたくてしかたなくなってしまった。

マモルとまたよりを戻したい、アヤノから取り返したい、という気持ちがほとんどだったけれど、でも一方で、一流大卒でお金持ちで頭がよくて将来性抜群の石田さんをマモルに見せつけてやりたい、悔しい思いをさせたい、という気持ちになるときもあった。

石田さんと一緒にいても上の空で話を聞いていない、みたいなことが増えた。

「奈央ちゃん、大丈夫?」

「私? 私は全然平気だよ」

男の人はよく女を抱きながら別の女のことを考えていたりすると聞くけれど、それはなにも男だけの話じゃない。

どうして私は石田さんと付き合っているんだろう、と考えてみる。

好きでも、そして嫌いでもなかった。きっとバランスを保つためだ。マモルよりも賢くお金持ちで将来性のある男から愛されているという事実だけを私は欲していた。いま私はリハビリ中なのだ。見知らぬ場所で仕事をして、新しい男と出会って付き合って。愛されることで、バランスを保ち、失われたプライドと自分自身を取り戻そうとしている。

石田さんから、ユニバーサルスタジオ行きたい?と聞かれて行きたいと答えた。僕のこと好き?と聞かれて好きと答えた。石田さんと一緒にいる私は嘘つきだった。でも罪悪感なんてなかった。小さな嘘がどんどん増えていって、過去にどんな嘘をついたか思い出せないほどだった。

 

「奈央ちゃんの誕生日、どこで何を食べたい?」

石田さんに聞かれたのは、先週のことだった。どこでもいいし何でもいいと思ったけれど、私はすごく悩むふりをして、スマホを検索し、阪急グランドビルの高層階のレストランを指定した。なんとなくこのへんだったら石田さんが喜びそうだな、と思った。

石田さんは、わかった、と言ってすぐに予約を入れてくれた。

「窓際の席でとったよ。夜景、好き?」

「うん大好き。ありがとう」

「天気がいいと最高だね」

「そうだね」

で、天気予報は雨だ。しかも降水確率90%。

 

大阪駅まではJRの環状線に乗っていく。せっかくの記念日だから、ということで、レストランでの待ち合わせになった。

石田さんはきっといい服を着て来るだろうから、お互い気まずい思いをしなくて済むように、私もそれに合わせて服を買った。何万円もする服を買うなんて久しぶりのことだった。マモルと付き合っていたときはしょっちゅう一緒に服を選びに行って、これは似合うとか似合わないとか鏡の前まで付き合わせたのに。服にも髪にも、お金をかけていた。

そう思って、あ、美容院に行くの忘れてた、と気づく。

昔の私ならそんなことはなかったのに。くせが強くてダメージを受けやすい私の髪は、ちゃんと定期的にお店できれいにしてもらわないといけない。最後に髪を切ったのは、大阪に来る前だった。そう、卒業式のときだ。ということは、もう四ヶ月近くほったらかしということだ。ありえない。

なんだかいてもたってもいられなくなって、私は電車に揺られながらスマホで美容院を検索した。もちろんあてなどないから、適当に、感じの良さそうなお店を探して、電車を下りてから電話で予約した。明日の午後なら空いている、と言われた。

御堂筋口を出て、歩道橋を歩く。ビニールの傘の下で、私は今日が雨でよかったと思った。雨に煙る大阪の街は、不思議と、私に少しだけ親しくしてくれているような気がした。私はこんなに嫌っているのに、やさしい街だな、と思って見直した。

そして、マモルと別れたときの最後の会話を唐突に思い出した。

あの日も雨だった。屈辱の卒業式以来、そのときの記憶にふたをして、思い出さないようにしてきた。正確には、思い出せずにいた。

何度目かの別れ話の最後に、マモルは言ったのだ。

「俺、一緒にいれてよかったよ。大学時代はお前と一緒に過ごそうと決めてたんだ」と。意味がよくわからなかった。

「私は期間限定だったってこと?」

「そういうわけじゃないけど、そういう見方もあるかもね」

じゃあお金貯めて結婚しようって言ってた約束は? どんな車がいいか、どこにマンションを買おうか、ふたりで考えたのは?

違う。これはリハビリなんかじゃない。私は復讐をしているのだ。マモルから私がされて傷ついたことを、私は石田さんにしている。そうすることで私は自分の人生のプラスマイナスをゼロに戻す。ひどいと思う。でも、こんなことをしないと、いまの私は生きていけないのだ。

 

レストランに着くと、石田さんはもう窓際の席に座っていた。

その向こうには大阪の夜景が広がっている。近づくと、景色は雨に煙って、雨粒が窓を叩いていた。

「誕生日、おめでとう」

わざわざ立ち上がって、石田さんが私を迎えてくれた。

「ありがとう。なんか、緊張するね」

ワインで乾杯した。出てくる料理はどれも美味しかった。でもそれを口に運びながら私はやっぱり、マモルのことを考えていた。ねえ、マモル、これ美味しいね。こういうの食べたことある? 私はじめて。マモル、アレルギーあるからこれ嫌いだよね、じゃあ交換しよう。そんなことが、頭のなかをぐるぐる回って、石田さんと上手に話をすることができなかった。

メインの皿が下げられたとき、

「雨だから、プレゼント、変更したんだ」

そう言って、石田さんはりぼんのついた細長い棒状の物をテーブルの下から持ち上げた。

「傘」

「うん、奈央ちゃんの部屋、ビニール傘しかないでしょ。ずっと気になってたんだ。よかったら使って」

高級ブランドの傘だった。たしか六万円近くするやつ。でも、石田さんからの誕生日プレゼントとして、それはふさわしくないように思えた。私はもっと石田さんに愛されてるはずなのに、傘か、なんて思った。ありがとう、私ね、本当は傘大好きなんだよ、とそう言いかけて、でも口にできず私は微笑むだけだった。どうしてだろう。それは言っても差し障りのないことのはずなのに。本当のことを石田さんに告げることを、なんだか私の身体が全体で拒否しているみたいだった。

「ここで広げちゃダメだよ」石田さんが笑った。

「わかってるよ」

「帰りに差して」

「もったいなくて差せないよ」

そのとき、デザートが運ばれてきた。バースデーケーキ。ダウンライトの光を受けて、きらりと輝く小さなものが、その中央に載っていた。それが何か、私はすぐにわかった。傘はカモフラージュだった。そしてその瞬間、私は、私の大阪はここまでだと思った。

「まだ出会ってからまもないけれど、僕にはもう奈央ちゃんしかいないと思ったんだ」

石田さんのプロポーズの言葉を、私は上の空で聞いていた。

この人はいい人だ。マモルなんかよりずっとまともだ。この人と一緒になったらたぶん一生困らない。私の目から涙がこぼれた。いったい何の涙なのか自分でもわからない。感動の涙と勘違いしたのか、石田さんがにっこりと微笑む。

「明日ね、私、髪切りに行くんだ」

想定外の台詞に、石田さんはぽかんとして、でもすぐ気を取り直して、そっか、いいね、と言った。

「私、どんな髪型がいいかな」

私は窓の方を向いて夜景に自分を重ねた。

そのとき窓にはりついていた雨粒がひとつ、重さに耐えきれず真下に落ちた。私はその筋をじっと見つめた。きれいになった私を見てもらいたい。その相手はやっぱり、マモルだった。私はプロポーズの返事をするために、涙を拭いて口を開いた。

 

 

 

After stage text :

 

雨はいつも勝手に降る

ひとの気持ちなんかおかまいなしに

冷たく 乱暴に 素っ気なく

無垢な場所を選んで濡らしていく

私は片手で透明のビニール傘を持ちながら

もう片っぽの手で

今日切ったばかりの髪に触れた

 

ひとつの物語の終わりは

ひとつの物語のはじまり

 

雨はいつも勝手に降る

その身勝手さは

でもいつも優しい

 

 

小説・藤田雅史 | 写真・TAKUMA | スタイリスト・西坂多恵(SUMI)